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ジーパラストア
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 主人公が内面世界と向き合い自己確認していく作品といえばいまブームが過熱している『新世紀エヴァンゲリオン』を思い出す。FFVIIの開発時期から見ても『エヴァ』からの影響は少なくないと思われるが、それよりも時代が生んだ同時多発的な作品として、同じ「志向」を持ったカテゴリーとして見ると面白い。なぜ、FFVIIやエヴァはこのような自己確認を(それもかなりハードなやり方で)テーマに盛り込んだのであろう?

 それは現代が「精神性」の時代だからかもしれない。

 FFVIIでひときわ際立ったイメージ、それは黒魔法メテオがクラウド達の住む惑星に落下してくるというシーンだ。内部ではその星の精神である魔晄エネルギーが次々に消費され、外側からは負の力の侵入により破壊されていく惑星。もし、ガイア理論のように星がひとりの人間だったとしたら、それは発狂寸前の壊れかけた危機的な人格である。

 クラウドの分裂的な様相や、エヴァの碇シンジの自己破壊的な内面が、時代が生んだ産物だとしたらどうだろう。FFVIIの物語に精神エネルギーや星の叫びなどという擬人的なたとえがあるのは、まさに現代社会によって自分を見失って破壊されていく人間の姿と、現代文明によって無秩序に破壊されていく惑星の姿をあえて重ねて見せようとしているのではないか。

 終盤でクラウド達は星の内部に向かってその物語を進めて行くが、それはつまり星の内面世界、星の心の中で決戦に臨むという構図である。だから星の中心にはライフストリームが存在し、我々の中心には「心」が存在するのだろう。悲鳴をあげているのは星ではない、我々人間自身なのだ。

 

 

  この過酷な時代において、FFVIIのような物語を持ったゲームが生まれたことは、必然だったのかもしれない。制作スタッフが意図したことなのか、無意識に生み出したものかはわからない。しかし映画やコミックが時代を反映して生み出されたように、FFVIIもこの世紀末にあって独特の「思想」を持ったゲームである。

 それはたとえば「癒し」という言葉である。エアリスは星を救うためにセトラの民として命を使った。だが本当に救いたかったのはクラウドや他の人々の精神だったのではないだろうか。

 仮にFFVIIの惑星自体が人の暗喩だったとして、精神エネルギーで生きる惑星にホーリーをかけるという行為は、結局我々の精神にホーリーしていることになる。ホーリーが現代でいう「癒し」や「ヒーリング」につながるならば、いま我々に必要なのはまさに聖なる癒しや祈りなのではないか?  

 我々はここで「時代は『精神性』の段階に入った」と言わねばなるまい。 

 あまたの新興宗教の問題、「脳内革命」や「エヴァンゲリオン」など自己啓発や自己改革の流行。これは物質や娯楽では補完できない心の暗部を照らすことを目的としている。FFVIIを読み解く大きな鍵は、ゲームというエンタテイメントにあって、そういった捉えどころのない時代への不安や焦燥感や癒しがこの作品のテーマとなって含まれていることである。

 我々が星とともに壊れゆく存在か否かは、我々が我々がこの作品を受けて何を考え、行動していくかにかかっている。

 FFVIIは幻想的な物語という形を借りながら、現実を生きるための物語を提出した。それは壊れゆく我らへの強いメッセージであったはずだ。 我々にとっての本当の「癒し」とは何なのか? それを見つけたものだけがこの時代を生き残るのかもしれない。

 



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